昭和43年01月14日 夜の御理解    



 今日は久しぶりで、熊本の日奈久教会の富永先生がご夫婦でお参りになりました。体がずっと悪いので奥さんがいつもお参りになる。今日はご信者さんがたが、お参りをすることうたら私どもが留守番をしとるから、是非お二人でお参り下さいというて、今日は信者さんがたが留守番をしてくれております、と参って参りましたが、案外元気のおかげを頂いておられます。
 同時に今日はほんとにあの今までお取次ぎ、今度あちらは教会設立ができました。で、そのほんとにその教会長としてお取次ぎさせて頂くと言う事に一番欠けておったものを気付かせて頂いて、結局あの自分が・・の無力であると言う事をある事柄から愈々分らして頂きました。もう本当に合楽にお縋りする外にない、まそういうま切羽詰った気持ちでお参りをして来ましたというて、ほんとに真剣なお取次ぎを願われます。
 いろいろそのお取次ぎをさせて頂きます中に、こう言うことを言ってました。合楽のごひれいと言うか、甘木の初代は、御物を徹底、実意丁寧神信心を持ってお取扱いなられた。こちらの先生は、御事柄を実意を持って丁寧に頂いておいでられた。そのことが現在の合楽のごひれいにあると言うことを、分らして頂きまして、もう徹底そのこと、いわゆる御事柄をです、
 実意丁寧にこれからは頂いて行きたいとこう思いますけれども、ところが実はほんとに難しいことだと、ね。甘木の先代がそれこそ一滴の水でも押し頂かれた。枯葉一枚でも無駄にはさせられなかった。ご自分もそうであった。修行生の方達が、枯葉一枚でも御粗末にされるようなことがあると、大変厳しくそれをやかましく言っておられたと言うことです。もちろん反古紙一枚でも大事にされた。
 もうその中から天地の親神様のお心を悟られ、親神様の御恩徳をそこから受けられたというても良いくらいに、もう実に徹底した、いわゆる実意丁寧の、以上のことはできまいと言うくらいに徹底された。ね、そしてあの大徳を受けられたと、と、ま、富永先生は言われる。確かにそうだと思うですね。ね、すと、こちらの先生は、御事柄を大事にされた。その御事柄を、たとえば私を中心にしておきてくる様々な事柄。
 様々な事情、その中には様々な問題がある。その問題を、もうほんとに、ま申しますならばですね、そうしたいわゆる御事柄との取り組みというか、対決と言うか、その対決において、見事にそれを元気な心で受けぬかれたり、それをまたは合掌して受けられたりしてお出でられたと。そこのところを今後私どもの信心にしていきたい、夫婦で。ところが先生これは、も、大変な難しいことですと。
 それだけのことなんだけれども難しいことなんだ。それを実意丁寧神信心を持って頂く。その御事柄そのものが、ね、神様私に求め賜うところの御修行であると。私に求めなさる信心であると分らして頂けば頂くほど、そこのところを大事にしていかなければおられないのですけれども、これはとても中途半端ではできることではないと言うこと。大変な難しいこと。ね、そこで結局必要なのは修行であると。
 一生懸命の修行をさせて頂いて、生き生きとした喜びと、生き生きとした有り難いと言うものを頂いておらなければ、それこそ問題がたとえば少しおおきか問題が起こってくると、もうその問題のためによろよろしよる。受け切らないそしてそれを向こうの方へ押し流そうとしたり、こういう問題は私の方へ持って来ちゃ困るとと言ったようなことになってしもうてそれを取り組み切らん。
 結局有り難くならして頂く以外にはないというようなお取次の中にそういうことを言うておられます。私、そのことをですね、ははあ、甘木の親先生は確かに御物を大事にされたが、私は確かに自分でもそういうことを表現したことはなかったんですけれども、御事柄を確かに大事にして来たと思うんです、私は。やはり御の字を付けなければおられんのです。こげな事情とか、こげな事とということじゃない。ね、
 神様が私に下さるんだから、やはり御事柄なのである。ね、そこに対決していくところへですね、なにが生まれたかと言うと、その対決と同時に力が生まれた。ね、そのことを合掌して受けて行くところに、いよいよ有り難いものはそれに加えられていった。今日朝のご祈念に、竹内先生達がご一家でお参りになられた。はぁ、元気ですね、おばあちゃんも80はいくつでしょうか、朝二時半から発って参りました。
 そしてもう私が四時半ごろにはもう、ここに着いておられましたですね。もう座っておられました。ほいであちらのお母さんがここでお届けをなさいますのに、東京へ二人息子さんが大学に行っておられますがね、あの正教さん長男のから手紙が参りまして、ほいでこう言うことを言っております。帰らして頂いて待ちうけておったものは、僕がアルバイトとして高校生かなんかにその家庭教師かなんかを頼まれておった。
 それを勉強を見てやっておった。ところがその待っておったものはそれを断って来た、いわば、ことであった。あれがもし僕があの普通であったらですね、困ったなとこう思っただろう。ところがこんどは椛目でああして修行さしていただき、またご本部参拝のおかげを頂いて、その余りの喜びというかね、余っておった喜びがです、それを有り難く受けさせてもらうだけではなくてです。
 はあほんとに済みませんでしたとこう心の中に、いわばその預かっておったその子供に対してお詫びをする気持ちが生まれたというてお母さんに手紙をくれた。ね、成程修行しておかなければいけないなと言うことが分かりますね。それは正教さんにしてはそのま月謝なり、月謝と言うのがま学費なら学費にも、の一部になっておったに違いはない。それが帰って、あちらに東京に帰った。
 そこに待っておったものは、それが断って来ておるということであった。まあがっかりした、と言うのじゃなくてですね、もうとにかく一番に、はあ、僕があの生徒に対するところの実意が欠けておったなぁ、と言うことを一番に思い、同時にそれを有り難く受けさせてもらう心がです、ね、椛目での何日間の修行にまたは、ご本部参拝から帰って来てからの信心の喜びのその余波と言うのか、その余りがですね。
 それをま言うなら見事受け止めたということである。私はもう御事柄を御事を大事にするということは、そういうようなことだと思うんです。ほんとにこげん有難い有難いで帰って来たのに、ね、はあ有り難いさあがんばるぞと思うて帰って来たのに、もいわば頑張ろうと思ってることが断って来た。もうがっかりしたまよくよく考えてみたら、またそれもま、おかげだったと気付いたけれどこれじゃもう遅いのです。
 それを、もう僕が子供に対する、ところの実意が欠けておったという、そのお詫びがまず、いわゆる、私はかもいで頭を打っても、もうあいたよという前に、すみませんという気持ちが起こらにゃ、信心しよってもつまらんと、私はいうそれなんです。いわゆるすみませんで受ける、有り難いで受ける、またはどっこいとこう受け止めて、それを四つに取り組んでというかね、その問題と対決していく。ね、
 その対決して行く内にそれを有り難いものにして行く訳です。そこへ力が生まれる。正教さんとしてはやはりショックな事で、大体はあったろうとこう思うんです。ね、だからその事をどうぞお礼を申し上げて下さいというて、その事がわざわざあのお届けがして御座いました。おかげを頂いておりますというのである。ね、皆さんはですね成程この方の信心は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせん。
 とこう仰ることはですね、浅いものにか考えておるわけですね。もうほんとに朝お参りをする、御理解を頂く、ね、その一日の喜びがですならこうして夜のご祈念に、ならここに何人も朝のご祈念に参ってまた今晩、皆さん参っておられる方おられますようにです、ね、だからこう言う喜びこう言う有り難い中にです、困ったことが起こってこない、この喜びが喜びにつながると、もいう簡単な考え方ではいけない。
 その喜びがほんとに、いわゆるほんとのものであろうかと、有り難い有難いというてほんとのものであろうかと、言うようなそこに神様の、言うならお試しが始まる。その向こうにあるのが喜びなんだ。ね、これだけ有り難い有難いといよるのに、こげなこつが起こってから、有り難いといや、有り難いことが起こってくる、そりゃしらごっだとと言ったような考え方では、いけないていうことが分かる。
 有り難いもう生き生きとした喜びを持って帰らして頂いたら、普通で言うならば困った問題が起こっておったんだけれども、そこにはすみませんと先に出た。同時にそのことに本気で取り組ませて頂くところの元気な心を持って、それを有り難く頂かせて頂いた。
 どうぞそのことのお礼を申し上げてくれと言うところにまでなってきておる、ね。その私はですね、そこんところを徹底して頂いていく信心が必要だ。
 そこでお互いが本気で修業させて頂かなければいけない。修行させて頂いて、信心の生き生きとした喜び、生き生きとした元気な心というものがです、なからなければ、いつどげなことが、いわゆる御事が起こってくるやら分らんのである。その御事が甘いこと、ね、嬉しいこと、有り難いことばっかりなら良いけれども、ね、それこそ場合によって目の前が真っ暗なるようなことが起こって来んとも限らん。
 そん時にそれをもうよろよろせずにどっこいと受け止めれる信心なんだ。ここでですね、も、あいたよを先に言うたらもうつまらんですばい。戦い、叩かれて済みませんが一番に出る信心を頂いとかなきゃ。私はそういう意味のことを、ほうと思うてから聞かせて頂いた。昨日の、昨日の晩でしたか。こたつの間でお茶を頂いておる時に久富繁男さんが言うておられました。
 寒修行が始まって朝のご祈念にお参りさせて頂いて、言うなら先生の御神前に付かれる前にお参りさせて頂きたい、という神願を立てた。御承知のように夜は11時、遅くとも11時、まで御用されるわけですけども。ほんとにあの、朝の、朝のご祈念のお参りがですね、いよいよ有り難いということが分ったとこう言うておられます。そして夜のご祈念は非常に楽しいものだと。もう夜も朝も有り難いものになって来た。ね、
 で今日は善導寺の久保山さんが言うておられるのもやっぱそうだ。ね、バスから降りるはもう御理解が始まってはおらんだろうかと思うたらもうコートを取る手もまどろしいように、こう走ってやって来るとこの調子なんだ。ね、そういう生々としたものを持ってです、私共が日常生活の中にそういう生々したもの頂いて行きよらないと、いや今日の所謂楽しいとかあり有難いという心持でなからないと受け止められない。ね、
 信心が有り難いものになる。信心が楽しいものになる。ね、ですからそのことも信心でいよいよ頂いて行くということになってこない。どうぞ一つ今日の富永先生のお届けさせて頂いてからですはあ、なるほど私は確かにそうだな、御事柄を大事にしておる。それはたとえば、ま真似か甘木の親先生のあたりのは真似しょうと思うたらいつでもできる。大事にする品物、物例えば米一粒でも押し頂くと言う様な・・はあ。
 そうさせて頂こうと思うたらできるんです。ところが御事柄と言うのは、そんなわけにはいかん。一段と難しい。しかしその御事柄こそがです、御物が神様の御物であるようにです、米一粒、水一滴が神様の御物であるから大事にされるようにです、御事柄とてもです、神様のそれが心なのだ。大坪総一郎に下さる、いわゆるこれは私にだけ下さるものである。私の周辺に起きてくる問題のそれは全部がそうである。
 苦かろうが甘かろうが、一応はそれを頂くところに神様のそうした願いと言うか思いと言うものを大事にしていくことになるのですから、神様を大事にする、神様を・・?頂くということで同じことになる。ね、私は確かにそれでおかげを受けてきたと自分で思う。御事柄をです、御事を大事にしていく。ね、時にはですいつも自分の心に豊なものがいよいよ育って行くおかげを頂かなければできるこっちゃない。
 いつもかつも、ね、悲観したような顔、いつも腹を立てた様な顔、いつも憔悴しきったような顔、これでですね、事柄、それこそ御事が起こって来ても、いよいよその御事をもうじゅつないばっかりで受けなければなりません。いつも生き生きと、豊にしかも生き生きとした信心修行精神というものがなからなければ、これは受けていけれる、ないということ、言うほどに難しいのです。
 難しいけれども、これを頂き出したら、今度は又やめられないというほどに有り難いのです。御粗末にしたら馬鹿らしいなってくる。ね、どうぞ、ま、ここで信心の稽古をなさる方はです、いよいよその御事柄に御の字が付けられるような一つおかげを頂いて頂きたいものですね。
   どうぞ。